宣教の決意

札幌豊平教会は、アジア・太平洋戦争終結50年を機に、戦前・戦中・戦後の日本の歩みをふりかえり、
わたしたちの教会の犯した過ちを認識し、その罪の告白と新たな宣教の決意を表明するに至りました。以下にその全文を記します。

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戦後50年を迎えての日本キリスト教会札幌豊平教会の
罪の告白と新たな宣教への決意

「教会は、主イエス・キリストをかしらと仰ぎ、聖霊の働きにより、神の救いの福音のために集められたキリストのからだであって、イエス・キリストのほかに、よって立つべき岩をもたない。
しかし、わたしたちの教会は、その歴史の中で、国家権力の不当な要求に屈し、天皇礼拝や、神社参拝を強いられても、十分に戦うことができず、政府の方針にのっとって教会合同を行い、聖戦の名によって行われた侵略戦争のため、自国を含めてアジアの諸国民と諸教会の生命と権利が侵害されても、真にキリストの証人としての役目を果たし得なかった」(「現代日本の状況における教会と国家に関する指針」、日本基督教会、1983年)
わたしたち札幌豊平教会は、アジア・太平洋戦争終結50周年を迎えた昨年、「私の戦争体験と戦後」と題する教会員の証言集会や、数回にわたる学習会、そしてさまざまな立場での取組みをとおして、戦前・戦中・戦後の日本の歩みをふりかえり、その歴史の事実を直視してきました。その結果、わたしたちの教会の犯した過ちを認識するにいたり、ここにその罪の告白と新たな宣教への決意を表明いたします。
札幌豊平教会は、北星女学校の創設者であった宣教師サラ・クララ・スミスが1906年頃、当時の貧民街であった豊平地区の一角に開設した日曜学校をその源にします。その後1921年、在日プレスビテリアン宣教師社団が、豊平4条に土地を購入し、引きつづき、北星女学校関係者が奉仕する日曜学校として伝道してきました。1931年には日本基督教会に所属した宣教師やこれを補佐する教師試補を中心とした豊平伝道所となり、伝道を発展させましたが、1941年、牧会するアメリカ人宣教師に対する帰国命令により、宣教活動は停止を余儀なくされました。
そして1949年、伝道を再開し、1953年には日本基督教団を離脱し、1951年に創立された日本基督教会に所属しました。この離脱は、日本基督教団の成立が戦時下における国家権力の強制によるものであり、教団としての信仰告白をもたなかったことに起因し、信仰告白を新たに定めた日本基督教会に札幌豊平教会(当時伝道所)が所属した理由もここにありました。しかし、それは明治からアジア・太平洋戦争へいたる歴史のなかで、日本基督教会が果たした戦争協力などの役割についての正しい認識と十分な反省の上に立った離脱ではあったとはいえません。
わたしたち札幌豊平教会は、貧しい人々や病める人々への伝道に力を注いできましたが、自らの教会が犯した罪と過ちへの認識を欠いたまま、それを告白することなく戦後を過ごしてきました。

ここに、その怠慢と無恥を厳しく反省し神と隣人の前に懺悔します。
とくに、アジア・太平洋諸国の戦争の犠牲者に対し、こころよりお詫びするとともに犠牲を強いた国家としての謝罪と完全な補償が一日も早く行われることを強く望みます。
そして今後このような過ちが繰り返されることのないよう、神のことばによって絶えず改革され、真に神と隣人に仕える教会が形成されることを願います。
そのために、この時代を生きる教会としての信仰の告白を吟味し、わたしたちの教会が豊平に建てられた歴史的意義をふりかえり、地域の課題を担います。
さらに日本社会がかかえる諸問題の根源にあった天皇制の克服にもとづき、韓国・朝鮮人をはじめとする在日外国人やアイヌの人々とわたしたち一人ひとりの人権が尊重され、民族差別、性差別のない、自由で、公平な社会の実現を宣教の課題とし、教会のかしら・歴史の主であるイエス・キリストへの信仰に生き、神のことばによる信仰の戦いを共にすることを決意します。
主よ、わたしたちを憐れみ、わたしたちの告白と決意を真実なものとしてください。

1996年1月28日
日本キリスト教会札幌豊平教会定期総会